この人インタビュー

青木達也さん【登山家?アルパインクライマー】

リスクを背負い、壁に挑むその魅力を多くの人に伝えたい

青木達哉さん

登山家?アルパインクライマー

(2007年3月東海大学文学部アジア文明学科卒業)

大学時代に史上最年少でK2登頂、現地では卒論のフィールドワークも

 2006 年、東海大学山岳部の部員やOB による「東海大学K2(ケーツー)登山隊」が、世界一難しい山とされるK2(中国?パキスタン)の登頂に成功した。隊員の一人である青木達哉さんは、当時大学4年次生。21歳でのK2 登頂は世界最年少記録だった。

 大記録を打ち立てた青木さんだが、実は登山を始めたのは大学に入ってから。何か新しいスポーツに挑戦したいと考えていたとき、山岳部に勧誘されたのがきっかけだ。右も左もわからない中、先輩の指導のもとで地道な訓練を重ね、2年次には新疆ウイグル自治区のDolkn Muztag(6333m)に初登頂。同年冬の穂高連峰へのアタックでは、予定通りに下山できず、雪洞を掘って一晩を過ごすという冬山の洗礼も受けた。

 山にのめり込む一方、学業にも真剣に取り組んだ。特に興味を持っていたのは、アジアの少数民族の暮らし。4年次夏にK2 に挑むことが決まると、現地でフィールドワークを行うために、パキスタンの言語であるウルドゥー語を猛勉強。片言ながら会話ができるようになった青木さんは、ポーターやコックとして登山隊に同行する現地住民にインタビューを行い、帰国後「バルティスタン人ポーターの生活や宗教観」と題する卒業論文を書き上げた。

 「K2 登山を振り返ると、落石や雪崩といった命に関わるトラブルと同じくらい、人々との交流が強く印象に残っています。厳しい自然に囲まれ、日本とは全く異なる生活を営む彼らは、出身地による格差や紛争といったさまざまな問題を抱えながらも、みんな純粋で温かい人ばかりでした。彼らと過ごした時間は、一生の宝物です」

尊敬する先輩登山家の教えを胸に限界と向き合いながら頂を目指す

 大学卒業後は、関東最大級のクライミングジム「スポーレ」のアルバイトを経て、大手登山メーカーに入社。平日に働き、休日に登山をする生活を半年ほど続けたが、より登山に力を入れるためフリーターに転身した。「将来への不安もありましたが、自分が好きなことを突き詰めていけば何かしら道は拓けると信じ、決断しました」

 その予感は現実となった。フリーター生活も4年目に入ったころ、縁あってかつてのアルバイト先である「スポーレ」から声がかかり、店長に就任。アスリートへの理解が深い企業に職を得て、青木さんはますます登山家としての活躍を広げていった。

 登山にもさまざまなスタイルがあるが、彼が最も心引かれるのは、雪の岸壁を登るアルパイン?クライミングだ。「アルパインでは、一つのミスが命取りになりかねません。そんな大きなリスクを自分の力でコントロールし、登りきることができたときは達成感もひとしおです」2012 年には、まさにそのアルパイン?スタイルでヒマラヤ山脈のキャシャール南ピラーに初登攀。その功績が評価され、「登山界のアカデミー賞」ともいわれるピオレドール賞も受賞した。「このとき尊敬する二人のベテラン登山家と登攀したことで、私の登山観は大きく変わりました。それまでの私は、良くも悪くも楽観的で、今回ダメでも次回があるという感覚で登っていたのですが、妻子ある先輩方はそうはいきません。目の前の山に集中し、自分の限界と向き合いながら頂を目指すその姿勢を、自分も見習わねばと思いました。コロナ禍で思うように登山ができない今は、一回一回の登山の大切さがいっそう身に染みています」

 現在は「スポーレ」店長として店舗運営に携わりつつ、空き時間を見つけては職場の施設でトレーニング。また、プライベートでは一児の父として、家事や育児にも積極的に関わっているという。

 大学で登山と出会って以来、「もっといろいろな山に登りたい」という一心で〝山中心〞の人生を送ってきた青木さん。最近では、そこに「登山やクライミングをもっと多くの人に楽しんでほしい」という新たな目標も加わった。そのために現在、登山やクライミングのインストラクター資格を勉強中。「多くの人にその魅力を伝えながら、生涯にわたって山と関わっていきたい」と抱負を語る。

Profile

1984年アメリカ合衆国テキサス州生まれ。青年期を茨城県守谷市で過ごす。東海大学入学後に登山を始め、2006年「K2」を世界最年少で登頂。2012年にはキャシャール南ピラー登攀に成功し、翌年、第21回ピオレドール賞(仏)およびアジアピオレドール賞を受賞した。現在は茨城県つくば市のクライミングジム「スポーレ」店長を務めつつ、国内外の魅力的な山々に挑戦し続けている。

立見里歌さん【タレント/編集者/プロデューサー】

多くの人に支えられ、幸せな人生を歩んできた
これからは、その恩を社会に返していきたい

立見里歌さん

タレント/編集者/プロデューサー

(1987年3月東海大学政治経済学部政治学科卒業)

寝る間もなかったアイドル時代も
つねに「本業は大学生」と自覚

 1985 年に結成され、一世を風靡したアイドルグループ「おニャン子クラブ」。立見里歌さんがその一員になったのは「偶然が積み重なった結果」だという。

 きっかけは、大学1年次のアイドルキャンパスコンテストだった。各学部から代表者を出す決まりだったが、当時、政治経済学部の女子学生はほんの数名。先輩から半ば強引に頼みこまれ出場したところ、思いがけず優勝を果たした。

 その日から、立見さんの大学生活は激変した。コンテストの翌日には、ミス東海大学としてフジテレビの深夜番組「オールナイトフジ」に出演。その日限りのつもりがレギュラーメンバーに抜擢され、継続的にテレビに出演することになった。「正直なところ、自分で何かを選択したというよりも、大波に押し流されるように芸能界に入ることになりました。ただ、私は責任感は人一倍強いタイプ。どんな仕事でも、とにかく責任をもってやり切ろうと思っていました」

 番組は翌3月に終了したが、一息つく間もなく、2カ月後にはおニャン子クラブのオーディションに合格。メインボーカルを務めた曲でオリコン1位を獲得するなど、またたく間に人気メンバーとなった。テレビ出演やレコーディング、各種取材など多忙を極める日々だったが、「どんなときでも自分の本業は大学生だと思っていた」と、立見さんは振り返る。「私の父は破天荒な人だったので、同じような人生を歩みたくない、自分の人生は自分でという気持ちが強かったですね。だから、卒業後は企業に就職すると決めていました。芸能活動も学業もどちらも大切なことでしたが、優先順位の一番目は大学生活。どんなに忙しくても、できるかぎり登校して授業を受けました」

アイドル時代の立見さん(写真右端)。
授業後はテレビ局へ直行し、夕方の生放送番組に出演していた。

これまでのキャリアの集大成として念願の自然派化粧品をプロデュース

 当時、芸能活動は大学までと決めていた立見さん。卒業後は株式会社ポニーキャニオンに就職し、営業や宣伝の部署で活躍した。結婚?出産を機に退職し、しばらくは専業主婦として子育てに専念、子どもの小学校入学を機に仕事復帰を決意。再就職した広告代理店では、長きにわたって雑誌や書籍の編集にも携わった。

 社会人として、母として、全力で走り続けてきた立見さんが、ふと立ち止まったのは50歳のとき。「子供が一人暮らしを始めて、母親としての責任から少し開放されたら、もう自由に生きてもいいんだなぁ?と感じた」という。「ちょうどその頃、ファンの人たちが開催してくれた『おニャン子クラブ解散30周年記念ライブ』に軽い気持ちで参加しました。たくさんのファンの方々が、当時と変わらない情熱で応援してくれて……。幸せな人生だなと、あらためて思い感動しました。私もこの感謝を、これからの人生少しでも皆さまに返していきたいと思うようになったのです」

 自分の経験を活かし、何か社会に貢献できることはないか――。そう考えたとき、リアルに思い浮かんだのは「化粧品」だった。「私は30歳頃からひどい肌荒れに悩まされ、スキンケアには本当に苦労しました。自分に合う化粧水が見つかっても、高価すぎて使い続けるのを諦めたこともありました。そこで、同じ悩みを持つ人のためにも、リーズナブルで身体に優しいスキンケアを作ってみようと考えたのです」

 編集業や広告代理店業などの仕事を通じて、化粧品や医薬品に精通していた立見さんは、その知識や人脈を活かし、無添加化粧品「イポラニ」を完成させた。「イポラニはビジネスというよりもライフワーク。これで儲ける気はあまりありません。社会貢献のつもりでプロデュースしています。自分や家族が安心して使えて、男性にも女性にも子供や大人にもいいものを作れたら幸せですね。今後は他の仕事も含め、信頼できる仲間と好きな仕事をしていきたいと思っています」

Profile

1965年生まれ。東海大学附属相模高校から東海大学政治経済学部政治学科に進学。1年次よりフジテレビの『オールナイトフジ』に出演し、番組卒業後はアイドルグループ「おニャン子クラブ」に加入。4人組ユニット「ニャンギラス」としてオリコン1位を獲得するなど中心メンバーとして活躍した。卒業後は株式会社ポニーキャニオンに入社し、営業や宣伝を担当。現在はプロデューサー?編集者?タレントと多才に活躍する傍ら、念願であった無添加コスメ「イポラニ」をプロデュースしている。
[イポラニオフィシャルサイト]https://www.la-ipolani.com/